Hi Betty!

tamptation

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それ以降は、全てがリセットされたかのように振り出しの姿へと戻った。
いや、リセットされただけであればまだよかった。
彼女はこの前の出来事が不服だったようで、最初とは打って変わって機嫌の悪ささえ垣間見せた。
頬を赤らめたり、刺々しくしてみたりと忙しい彼女から朗らかな微笑みが向けられることはなかった。
代わりに、彼女の周囲には悪しきを寄せ付けない薄い壁があった。

「#name#、さっきから君はこう言いたいんだろう?僕が悪いって。」

僕は彼女を抱き寄せた。彼女の反抗の混じった仕草を見ていると、獲物を捕縛しているような気にさせられた。

「それ以外に考えられることってある?」

今日の彼女はやけに挑発的だった。

「君があまりに愛くるしいから、かな。」

僕がそう返せば、彼女は眉根を寄せた。
きっと、まとわりつく小蝿を煩わしく思う時にも同じ表情をするのだろう。

「なんだ、期待しているのかい?」
「……思い出させないで。」

彼女はいかにも嫌そうに返答した。

ー既に思い出しているだろうに。

僕は危うく出かけた言葉を、胸の内にしまい込んでから

「冗談だよ。 」

と笑ってみせた。

「まぁ、何もしない保証はないけれど。」

軽い気持ちで付け加えたつもりが、僕の腕に捕らえられたままの彼女が身を竦ませるので、宥めるように髪を梳いた。
彼女からしたら、余計に気が休まらないのかもしれない。

「少なくとも二日は我慢したよ。」
「我慢って何の……」

味を占めたせいなのか、頭の片隅にはずっと彼女の残り香があった。
ふとした瞬間に、よく覚えている彼女の香りがして、ひんやりとした頬の奥の温かみと甘みの少ないホイップクリームの味が蘇るのだ。
その後、僕が何を感じて何をなかったことにするのかなんて、彼女にとっては、洗い終わった食器と同じくらい関心の沸かない事柄なのだろう。

「それなのに君は、他の人のところへ行けだなんて言うんだ。あの時、僕に言った言葉は嘘だったのかな。」

僕は丁度いい材料を取り出し、適度に盛り付けをしてから、彼女へと差し出した。
こんな風に責めれば、彼女が少し気にして案外覚えていることをよくわかっているのだ。

「そうじゃないけど…」
「へぇ。」

今になって彼女の言葉が覆られないことに僕は密かに安堵した。

「…この前みたいにされると、どうしたらいいかわからない。」

彼女は隠れるようにして僕の胸に顔を埋めると、ひと吹きすれば消えてなくなりそうな小さな声で溢した。

「お子様には、早かったね。」
「…物足りないなら私なんかやめた方がいいわ。」
「そうかい。」

彼女の声色がほんの少し揺れたことに僕はしっかりと気がついていた。
しかし、掘り下げることはしなかった。
すぐに自己完結する彼女に意地悪な気持ちが湧いたのか、はたまた反応を試しているのかは自分でもわからないが、彼女の言うようにはならないことは明確だった。

「………私のことどうしたいの?」

彼女は尋ねる。

「知りたいかい?」
「…あんまり、知りたくない。」

聞き返せば、顔を向けられることもないまま矛盾した答えだけが返ってきた。

「天邪鬼なものだよ。」
「#name#、こっちを見て。」

僕は彼女の小さな後頭部に手を添えた。
僕の手の中で、こちらを見つめる瞳はよく知っている。

「….なに?」
「こうしている瞬間は僕だけのことを想っていてくれる気がしたんだ。」

彼女の瞳はいつも通り淡く澄んだ色で、瞬きの度に順序よく並んだまつ毛の先が不思議そうに揺れていた。

「ねぇ、どこにも行かないって約束して。」
「……どこかに行く宛なんかないわ。」
「…そうだろうね。」

彼女の答えは割ったら綺麗に零になりそうな、明白さを持っていた。
明白な零の前では僕の燻った感情はあまりに曖昧だった。
そして、零は彼女と僕との間に膠着した静かな間と、ほんの少しの侘しさをもたらした。
もしもこのまま、この静かな空間に溶けてしまうのだとしたら、放っておいたら冷めてしまいそうなか細い身体を彼女の傍で温めていたかった。

溶けきるまで、その目に何も映らなくなるまでずっと、ずっと。

きっと永遠であるかのような儚い時間なのだろう。
僕はほのかにあの香りを感じていた。

「………クジャ、あの時言ったこと、別に嘘じゃないの。」

恐る恐るではあるが、空白を埋めるように言葉を繋いだのは意外にも彼女の方だった。
彼女も零の侘しさを感じ取っていたのかもしれない。

「上手に嘘が吐けるほど器用じゃないことくらい、わかってるさ。」

誘惑的な香りが濃くなっていく時、決まって僕は平静を装おって彼女を手懐けようとした。
惹きつけられるまま強引に欲して、仮に彼女が壊れてしまったとしても、僕は愛おしく感じるのだろう。
しかし、彼女の中に僅かに残った核のようなものを僕がどれほど大事に思ってきたかを忘れられるわけがなかった。

「………いつもそう。………時々、…………る気がする。」

言葉こそよく聞き取れなかったが、その声はいつもより弱々しく蕩けてしまいそうな甘ったるさを含んでいた。

「…あんまり私のこと」
「#name#。」

僕は振り払うように彼女の言葉を遮った。
彼女は心配そうに僕を見上げていた。

「まだ一緒にいたいんだろう?」

尋ねれば、彼女は小さく頷いた。
気付かぬ間に彼女は僕の手を握りしめていたようで、恥ずかしいのか指には力が込もっていた。
僕は力の入った指ごと包み込むようにして、彼女の手に自分の手を重ねた。
たぶん、まだじゃなくて、ずっとだったら頷いてはくれなかったのだろう。

「こんなに強く握るのに、君からは抱きしめてはくれないんだね。」
「あっ…」

彼女は慌てて手を解いた。
きっと無意識だったのだろう。
練習は一度中断した方がよさそうだった。
彼女にとっても、僕にとっても。
また後にしようと言いかけたところで、ふんわりと軽い質感が胸元に舞い込んだ。

「#name#?」

僕は驚いていた。
この質感が本当に彼女のものだと実感するのに、ほんの少し時間がかかったが、確かに腰には彼女の腕が回されていた。

「…これなら、少し慣れてきた。…ねぇ、思い通り?」
「悪いけど、僕はもっと欲深いんだ。」

問いかけに答えれば、彼女は分が悪そうに肩を竦める。

ー この時間がずっと続けばいいのにって、ふと思うの。
ー…好きなのかも。たぶん。

夜の庭で彼女が僕に囁いた言葉だ。
好きなのかもしれないなら、そういう風に振る舞ってほしいものだった。

「君も往生際が悪いね。」

僕は皮肉を込めて彼女に言った。
彼女は今何を考えているのだろうか。
この時間がずっと続けばいい。
僕は今まさにそう感じていた。