Hi Betty!

puppy face

アレクサンドリアでの彼女を思い返して頭に浮かぶのは、全てを押し殺した無機質な表情、怯えと困惑を含んだ瞳だった。
彼女は自分の奥底から微かに聞こえる声には耳を傾けず、いつかは大切な中身までもを主君に明け渡してしまっていたのかもしれない。
彼女がしばしば僕に向ける、不安げな子犬の様な瞳はまだ目の前の線の細い身体の中に彼女が残っている証拠だった。
僕は今にも消え失せてしまいそうな彼女を完全な状態でその身体に保管しておきたかった。
抱きしめれば留まっていてくれるのではないかなどと、ピントのずれた手法が度々頭をよぎることには我ながら少々呆れているが、彼女の様子を見ていると全く効果がないわけでもないように感じられた。

トレノで彼女と過ごすようになってからは、その瞳や言動により濃く彼女を感じられるようになった。
困ったように僕を見上げる姿は相変わらずだが、言われたことに頷いてばかりだった彼女が、時に嫌そうな顔をしたり怒ったりもするようになったのは進歩だった。
ただ、たまらなく嫌なこともあった。
当然に彼女は、面白くなさそうに顔を背けることもあれば、頻繁ではないがにこやかに笑う姿も見せる。
しかし、後者は僕自身に向けられることよりも、使用人だったり他の誰かに向けられることが多かった。
僕が幾度となく接してようやく得たものを、彼らは意図も容易く手に入れるのだ。



つい数日前のことだった。
僕は彼女とダンスの練習をした。
その日が初めての練習だった。
買ったばかりのドレスを纏った彼女は普段よりも可憐で弱々しく見えた。
慣れない衣装と状況に戸惑っていたせいもあるのだろう。
グローブのついた彼女の手をとれば、すぐに視線は逸らされた。
その頬はほんのりと上気していたが、僕は構うことなく彼女の腰を引き寄せた。

「クジャ。私、できるかな。」

彼女は芯の通らない不安げな声で小さく溢した。
その視線はやはり、逸らされたままだった。

「できるようにするんだよ。」

彼女の横顔を間近にそう告げれば、彼女は小さく肩を揺らした。



その後の彼女は順調だった。
僕の手の内で僕の思い通りに舞う彼女は、すっかり緊張も解けた様子で、他愛もない会話を楽しむ余裕さえあった。
今の彼女は驚くほどに自然だった。
緊張、圧迫、遠慮、彼女を押し込めていた堅牢な殻はもうどこにも見当たらない。
生身の彼女の体温は愛おしくあるのと同時に僕をたまらない嫌悪感を抱かせた。
恐らく相手が僕でなければ、もっと簡単に気を許し、はにかんだように頬を緩ませるのだから。

僕は日光に晒された吸血鬼のように、内にある何かが蝕まれていくのを感じていた。
その何かは、

ーいずれ彼女の中で唯一存在を証明していた、怖がりな子犬がいなくなってしまうのではないか。
ーそうしたら、彼女の世界には僕だけしかいないのかとさえ思わせる、あの瞳は二度と僕を映さなくなるのではないか。

などという根拠のない不安が真実になるのではないかと僕に錯覚させるのだ。
頭の片隅ではわかっていた。
近づけば身を固くして僕を見上げていた彼女が、時折、その瞳の影に愛着と安堵を覗かせることも、頑なに受けつけようとしないと思われていた好意だって沁み渡るようにして、彼女の身体に残っているということも。
しかし、わかっているだけでは満足ができなかった。
もっと肌身に、もっと奥深くに植え付けたかった。
僕は彼女の香りに強く誘われていた。
色白な頬に触れれば、ひんやりとした感触が伝わり、追って温もりが指先を温める。
彼女の体温で存在を確信すると、さらりとした味気のなさそうな唇に自分の唇を重ねた。
彼女との口付けは何故か甘さの少ないホイップクリームを思い出させた。
彼女が作るケーキのホイップクリームは決まってこういう味がするのだ。
一口足りとも残さないようじっくりと味わった後、視線を落とせば、大好きでたまらない彼女の瞳は濡れていた。
困惑した彼女の瞳は、僅かに残る僕の罪悪感を掻き立てた。