屋敷に帰ってから、私はずっと庭を散策していた。
気づけば日は落ち、空には星が浮かんでいた。
ここに来て数時間は経っているように思うが、私はまだ部屋に戻る気にはなれなかった。
どんなに歩き回っても、立ち止まってみても、もやもやした何かがしつこく胸に残っているのだ。
どうしてあんなに気が立ったのか、今となってはわからない。
わからないけれど、彼にはまだ会いたくなかった。
ふらふらと歩き回るのに飽きた私は薔薇のドームに囲われたベンチに腰掛け、薔薇と夜空を眺めていた。
「こんなところにいたのかい?」
あまり聞きたくないような、でもどこかで待っていた声だった。
「うん、涼しいよ。」
「だろうね。夕飯はまだなんだろう?」
「いらない。」
クジャの溜息が聞こえ、ベンチが少し軋んだ。
彼が隣に座ったのだろう。
私は依然として空に視線を向けていた。
今日は三日月だった。
か細い月は半分が雲に覆われていた。
「…おもちゃ感覚で見てるとでも?」
彼は私に尋ねた。
仄暗い月明かりによく馴染む静かな口調だった。
「わからない。そうだとしても、それに対して怒ったりしないわ。」
逆に言うと、そうじゃないのであれば一体私の何に関心があるのか疑問で仕方なかった。
私が彼にとって利益になる要素など全く思い浮かびやしないというのに。
「怒ってくれた方が助かるんだけれどねぇ。」
「…変なの。」
歩いている時は気にならなかったが、こうして座っていると肌寒さを感じる。
「さすがにこの時間は冷えるね。」
「うん、夜だもん。」
話すことが特になければ、注意の向き先は同じらしい。
私が言葉を口にすれば、胸に残る刺々しい何かが声に混じって彼を刺してしまうかもしれない。
月にかかる雲の動きを観察しながら、そんなことを心配していた。
ふと後ろを振り返れば、彼が私を見つめていた。
月の光を含んだ柔らかい瞳だった。
私は何度か瞬きをするが、その間も彼の視線が逸らされることはなかった。
「なに?」
けして敵意があるわけではない。
ただ、私に思いついたのがこの言葉なだけだった。
「やっぱり綺麗だ、って思ってたんだ。」
クジャはあどけない少年のようにどこか得意げに微笑んだ。
「どうしちゃったの?少しおかしくなった?」
発言もそうだが、何が一番おかしいかというと、言ってる本人が比較にならないくらい綺麗なところだった。
「褒められてるっていうのに、随分な言い様だね。」
「別に綺麗じゃないもの。」
「…この自覚のなさだ。いっそのこと閉じ込めてしまおうかな。」
彼は私の瞳を覗き込むように間合いを詰め、ゆっくりとした手つきで頬を撫でた。
誘惑的な仕草だった。
「だから…」
「誰にでもついていくわけじゃないんだろう?」
私の言葉は遮られた。
代わりに言いかけたことと、ほとんど同じ内容が返ってきた。
「そうじゃなかったら困る。ちゃんと僕のだって約束してもらわないと。」
「そうだって言って………ん?」
最後までよく聞かずに返事をしようとしたはいいが、途中で意図していた内容と若干の相違があることに気がついた。
「なんだい?」
クジャの言葉を頭の中で繰り返している間に私の身体は捕らえられ、彼の腕の中に収まっていた。
「…子供のおつかいじゃないのよ?他の人についてったりしない。」
「それで?」
彼が求めている言葉はわかっていた。
しかし口にするのには躊躇いがあった。
クジャのものとはどういうことなのだろう。
純粋に所有としての意味合いだけなら何の問題もなかった。
-でもきっと違う。
「だめ。上手くバランスが取れなくなるの。」
「君は大胆なのか慎重なのか、よくわからないね。」
彼の透き通るように白い手が私の髪を滑り、細長い指先が耳の形をなぞる。
擽ったさに肩が跳ねるのを見ると、彼は小さく笑った。
「知ってるかい?狂おしいくらいに愛おしくて仕方がないんだ。僕を見つめる瞳も、甘い声も何もかも。良心的な僕は君の準備ができるまで待っていてあげようと思ってるけど、そうじゃない僕は今すぐにでも君のことを欲しがってる。何に従ったらいいのかな。」
クジャは困ったように視線を落とし、私の鎖骨のあたりに顔を埋めた。
こういった際にどうすべきか、私には知識も経験もないというのに、彼に悪いことをしているような気持ちだけは工場の出荷箱のごとく積み重なっていく。
「私、どうしたらいい?」
「このままでいてくれればいい。取って食べたりはしないさ。安心しなよ。」
私を抱く腕の力が強まった。
きっとクジャにとっては不十分なのだ。
欲しいのなら好きに奪ってしまえばいいだけの話なのに、それをしないのは私の気持ちを気にしてのことなのだろう。
「クジャ。」
彼の名前を呼んだ。
彼は熱の帯びた瞳で私を見上げた。
私は彼の両頬を包み込み、彼の唇に自分の唇を触れさせた。
酷くゆっくりな数秒間だった。
「…少しだけなら、いいよ。」
私は躊躇いがちに、彼に告げた。
少しがどれくらいなのかなんて知るわけもなかった。
「また難しいことを言うね。どうなっても知らないよ。」
彼は頬に添えられた私の手をとり、指を絡めた。
涼しげに細められた瞳の奥では、獲物の喉元を狙う肉食獣のように私を捕らえる機会を待ち構えているのだろう。
そうでもなければ、こんなに愛おしげな表情にいつ鋭利な牙で噛みつかれるかわからない緊張感を感じるはずがなかった。
「少しだよ?」
「嫌になったら止めることだね。」
ふわりと、甘い香りがした。
唇が重なり合えば、緞帳のようにゆっくりと瞼が落ちていった。
風が吹く度に庭の草花の葉音がどこからともなく聞こえてくる。
先程まで私が感じていた緊張とは裏腹に彼は上品で丁寧だった。
繊細なデコレーションを施されたスイーツを食べるみたいに、飾りの一つ一つの舌触りを確かめながら、蕩けてなくなる瞬間までを味わうのだ。
閉じた瞼を再び開く頃には、私のことなど全て知り尽くされてしまっているのではないかとさえ思えた。
もし彼が私の心を手に入れたとしたら、毎日懐に置いて柔らかな声で語りかけてくれるのだろうか。
「…すぐそういう顔をする。ずるいね。」
視界の中の彼は微笑み、私の髪を撫でた。
「……おもちゃの扱いじゃないね。ごめん。」
クジャは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに意図を理解したようだった。
「ふふ、どちらかといえば保護したペットだよ。首輪ならいつでもつけてあげるんだけれどね。」
彼が髪を撫でる様が犬の頭を撫でる様子と重なった。
私はそういう扱いだったのだろうか。
「それは大丈夫。」
「そうかい、残念だよ。」
私が首輪をお断りすると、彼は言葉の通り、残念そうに目を逸らした。
「繋ぎとめておきたい。ってところなんだろうね。……情けないかい?」
「なにが?」
私に尋ねておきながら、顔は遠くを向いていた。
「他に触れさせたくないんだよ。君がまったく意識してないことくらいはわかってる。こればかりは本能さ。困ったことにね。」
自嘲気味な言葉を並べる彼の声色はいたって淡々としていた。
「クジャ……」
「また惑わせることを言ったかい?」
「今に始まったことじゃないわ。」
どうしてか、どうしようもなく彼の顔が見たくて腕を引けば、いつもの何かを包み隠したような艶やかな表情がこちらを向いた。
「……悪かったね。」
クジャは罰が悪そうに紡ぎ出した。
どこか素っ気ない、下手くそな謝り方だった。
私は彼の首に腕を回した。
それから耳元に口を寄せて、けして彼だけにしか聞こえないように小さな声で囁いた。
やはり、口にするのは恥ずかしかったのだ。