店を出てからのことだった。
「一つ聞きたいことがあるんだ。」
「なに?」
クジャが聞きたいことを想像するのは簡単だった。
「なんで、着付けを男にお願いしたんだい?」
案の定、だ。
「コルセットがきつくて具合が悪かったんだ。でも、女の人に言っても直してもらえなかったの。みんなクジャと話していたかったのね。」
特に嘘をつく必要もないので、私はあったことを正直に話した。
「僕に相談すればよかっただろう?それくらいの機転が利かないとでも思ったかい?」
クジャは虫の居所がよくないのか、いつもより少し語気が強いように思えた。
確かに、私の振る舞いは彼を立てているとは言えなかった。
「そんなこと思ってないわ。あの中に割って入っていくのが気が引けただけ。」
私は彼の問いかけを否定した。
けして彼のことを信用していないわけではなく、本当に声をかけずらかっただけなのだ。
彼は諦めたように目を伏せた。
「…悪かったね、気がつかなくて。当日は何かあったら必ず言うんだ。君の警戒心は紙のように薄っぺらいから、少し心配だよ。」
「わかった。…ごめん。」
クジャは後ろめたさを感じたのか、さっきとは打って変わって憂た面持ちを見せる。
紙のようにとは言われたものだったが、下手に口出しはしなかった。
「それと、さっきみたいなことは他にしてくれるなよ。」
「……どれのこと?」
思い当たる節としてはいくつかあったが、どれを指しているのかがはっきりしなかった。
挑発的に思われないかという心配はあったが、私は聞き返した。
「不用意に甘えた顔をするなってことだよ。」
甘えた顔。ドレスを決めた時のことだろうか。
もしそうなのだとしたら、正しくは不用意ではなく、故意になるのだが。
「…あー、ああいうのは柄じゃないから大丈夫だと思う。」
「けっこうしてるから言ってるんだ。」
そうだろうか。
私は直近の記憶を思い返してみる。
「なんていうか、変な雰囲気になるの、クジャくらいよ?他の人にはこれといって何も思わないもの。」
誤解されるような節は、クジャとのやり取り以外では一切ない。
基本的に私は恋とか何とかには無縁だ。
だから困っているのだ。
そして、口に出してから何かがおかしいことに気づく。
「あっ…」
「じゃあ、僕には何を思ってるのか教えてもらいたいところだよ。」
「えっと、それは…」
完全に失敗だった。
これでは、私がクジャに対しては特別な感情を抱いている言っているようなものだった。
他に似たパターンがないという意味で特別といえば特別なのだが、伝わり方には問題があった。
「それに、さっきの彼には抱きついておいて、僕には何もなしかい?」
クジャは不満気に続ける。
ここでさっきの彼、もといアルテミスが出てくるのが不思議だった。
何故、比べる必要があるのだろうか。
それに対して、一つ、推測が生まれるのはすぐだった。
彼の考えていることは、思いの外単純なことなのかもしれない。
-クジャの機嫌がよくないのは恐らく…
「………妬きもち?」
「さぁね。」
クジャは馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに、冷やかに視線を外した。
「ふぅん。…私のこと、脱がせたかったし、抱きしめられたかったってこと?」
少し面白かった。
彼が私に執着があるとは思っていないが、手元のものが他に取られるのに嫌悪を感じるのはおかしいことではないと思う。
そうとわかりつつも、私にとっては珍しい状況で普段彼にやられていることをやり返してみたかったのだ。
「君って人は……もう少しオブラートに包んだ言い回しをできないのかな。…まぁいいや。それで…あぁ、なんだかまどろっこしいな。」
彼が何を思い浮かべているのかは私には想像ができなかったが、さぞ面倒に思っているということは表情から理解ができた。
「僕は君のことを何だと思ってると思う?」
前にも聞いたような言葉だった。
「………居候?」
「そういう類の答えが返ってくると思ったよ。じゃあ、仮に居候だとして、何で僕がそんなものの面倒を見なきゃならないんだい?」
クジャの元に来てから、私が一番疑問に思っていることだった。
彼は私に何をさせたいのだろうか。
少なからず、彼が主従関係を求めていないことは明白だった。
「それ、すごく知りたい。」
「教えてあげてもいいけど、条件があるんだ。」
時折、彼の甘い声色と艶やかな口元に不穏な空気を感じることがある。
今がまさにそうだった。
「……何?」
「昨日の夜のことは覚えているかい?」
私の感覚は間違いではなかった。
折角、蓋をしてテープでぐるぐる巻きにして記憶を閉じ込めていたのに、簡単に引き剥がされる。
私は頬が熱を持たないよう、なるべく余計なことは思い出さず、平静を維持して頷いた。
「その時みたいに、僕にキスをしてくれたらいいよ。」
キス。
細かく砕かれたチョコレートが温めた生クリームと混ざり合い、ブランデーを注がれた時の情景が浮かんだ。
あまりに密接すぎる。
でも嫌悪感はなかった。
寧ろ、全て持っていかれてしまってもいいのかもしれないとさえ思ったのだ。
-クジャが綺麗だから、そう錯覚した…?
-本当にそれだけ?
深入りするのはやめた。
このまま思い出していたら、肌に残る体温や指先のしびれまで蘇ってしまいそうだった。
少なくとも彼がこういった切り出しをするということは、私に求めている役割についてもそうなのだろう。
それだけわかれば充分だった。
まだ、身の回りの世話を求められる方が楽だというのに。
「………ほとんど答え、聞いた気がする。」
「なんだ、もう少し鈍いのかと思ってたよ。」
「さすがにそれくらいの想像はできるわ。」
気づけば辺りは夕陽に染まっていた。
私はそれ以上のことを知るつもりはなかったが、そもそも私がそれで気づくことを見越していたのではないかという疑念が浮かんだ。
「だとしたら、自分の振る舞いについても想像を働かせることだね。」
彼の切り返しには、具の多いラズベリーパイみたいに皮肉がたっぷりと含まれていた。
「なぁに?」
こぼれ落ちそうなジャムを舐めとるように、私は聞き返す。
回りくどいのは嫌いだった。
「わからないかい?異性に対しては大多数が狂ってるのさ。少し気のあることを言うだけで思うがまま、操り人形みたいに踊ってくれる。舞踏会で試してみたらどうだい?君なら僕の元じゃなくても、選ぶところはいっぱいあるだろうね。」
彼は意地悪く微笑んだ。
一瞬手が出そうになったが、なんとか抑えた。
こうなると売り言葉に買い言葉だった。
「なにそれ、私が誰にでも思わせぶりだとでも言いたいわけ?ていうか、クジャが人のこと言える?私に対しては何?別におもちゃ感覚だとしても構わないけど、一緒にしないで。それに、私は誰にでもついていくほど簡単じゃないわ!」
路上がやけに静かだった。
周囲の視線は私たちに向いていた。
どちらからともなく、クジャと私は視線を外した。
この後、彼とはしばらく言葉を交わさなかった。